【ドルーアン研修ばなし】ロマネ・コンティとドルーアン

フジイの日々
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オンラインWassy’sのフジイです。

 

私事ですが…、ブログ投稿100本目…なのです。
昨日たまたま気づいて「おっ」となりました。

 

2014年の入社以来、「ブログ苦手だぁ」と言い続けて
ひと区切りの100本。
もっと面白いこと書けるように、これからも頑張ります。

 

記念すべき100本目は、研修ツアーきっかけで知った
ロマネ・コンティとドルーアンのお話。

ジョセフ・ドルーアン2代目社長のモーリスさんは、
早くからワインの品質を重視していた人。

 

同じくブルゴーニュでワインを造る、
ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティの姿勢に
感銘を受け尊敬していたモーリスさんは、
ロマネ・コンティのワインの販売を始めるとともに
自社畑の品質アップにも力を傾けたそうです。

 

1930年代中頃には、ドルーアンは、フィロキセラで大打撃を
受けながらも品質にこだわり、利益減に耐えていた
ロマネ・コンティの生産量の60%ほどを買い取り販売。

 

ラベルを貼る前のボトルの状態で購入していたので
ドルーアンが販売するロマネ・コンティのラベルには
「ドメーヌ・ドルーアン・セレクション」と書かれていたそうです。

 

そうこうしているうちに世界はきな臭くなっていき、
1930年代後半、第二次世界大戦が勃発します。

 

先の第一次世界大戦で、兵士として戦ったモーリスさんは
戦時下でどんなことが起こるかが分かっていて、
起こりうる事態に備えて、ワインを隠し守ることを決めます。

 

ボーヌの地下に張り巡らされていたドルーアンの地下カーヴ。
迷路のように入り組んだ中の一角に、何万本もある中から
特に大切なワインを隠し、何とその前に壁を作ったそうです。

 

しかもカモフラージュのため、カーヴ内から蜘蛛を集めて
壁の前に巣を張らせるという徹底ぶり。

 

その中には、ロマネ・コンティの1929年~38年も
揃っていたとのことです。

 

戦時下では、人手やボルドー液のための銅の不足などから
ブドウ畑は荒廃し、どのワイナリーも大変な中、
ロマネ・コンティも資金繰りに困って共同経営者を探すことに。

 

そこで真っ先に候補として挙がったのが
同じブルゴーニュのワイン生産者であり、
当時、ロマネ・コンティにとって最大の販売代理店でもあった
ドルーアンでした。

 

…が、当のモーリスさんは
実は、反ドイツのレジスタンス活動もしていたことから
ドイツ軍に捕らえられて、捕虜となっていました。

 

奥様と面会する機会はあったようで、
共同経営の話を聞いたモーリスさんは、
その話を受けるには借金をしないといけないけれど、
自分の身の先行きも分からない中で、
借金を背負うわけにはいかない、と
断念されたそう。

 

これには別の説もあり、モーリスさんが捕えられて
牢の中に居たために契約書にサインができなかった、
という話もあるようです。

 

いずれにしても、ドルーアンがロマネ・コンティの
運営に関わっていたかも知れない、
という可能性があったということですね。

 

その後、第二次世界大戦は終わりを迎え
フランスも占領状態が解かれ自由の身に。

 

ロマネ・コンティの共同経営者にはならなかったけれど、
壁の奥に隠したワインを無事に守り切ったおかげで、
ドルーアンは、戦後、いち早く会社を立て直すことが
できたそうです。

 

ちなみに、昔、アメリカのオークションで
ロマネ・コンティが落札された時に、
ボトルのネックに「Domaine J Drouhin」と
書かれてあったそうです。

 

時おり人の目に触れた時に、
「これ本物のロマネ・コンティか!?」
と物議をかもすこともあるそう。

 

世界のどこかには、まだ当時のボトルが
眠っていたりするんでしょうか…。

 

最後になりましたが、
オンラインワッシーズでのドメーヌ・ドルーアンの取扱いワイン
どーんと増えております!

こちらからどうぞ↓↓↓
ドメーヌ・ドルーアン商品一覧

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