パラダイス・リッジ・ワイナリーと長澤鼎

フジイの日々
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オンラインWassy’sのフジイです。

 

カリフォルニアで同時発生した山火事について
連日報道されています。
ワッシーズゆかりの土地、
カリフォルニアでの惨状にスタッフ一同
一刻も早い鎮静化を祈りながらニュースを見ています。

 

その中で、取扱いのある
パラダイス・リッジ・ワイナリーが
焼失したと伝えられました。

 

パラダイス・リッジ・ワイナリーは
アメリカで「グレープキング」と呼ばれた
長澤鼎(ながさわ・かなえ)のワイン造りを
今に伝えるワイナリーです。
以下にご紹介させていただきたいと思います。

 

長澤鼎とは、1800年代の中ごろ、
西洋文化を学ぶために、イギリスに渡った薩摩藩士。
当時の日本は鎖国政策中だったため、
仲間とともに密かに渡航したそうです。

 

 

最年少の13歳という若さから
他の仲間と同じ大学には入れず、
スコットランドの学校で学び、
とても優秀な成績を修めていたという長澤。

 

その後、イギリスを訪れていたアメリカ人
トーマス・レイク・ハリスに出会い、
仲間とともにニューヨークへ渡ります。

 

五大湖のあたりでブドウ園を開き
ワイン造りを始めますが、
当時のストイックな生活や藩の財政難、
明治維新の知らせを聞いたことなどで
次々と仲間が帰国していく中、
長澤はハリスとともにカリフォルニアへ移り、
サンタローザ近郊のファウンテングローブに
ワイナリーを開きました。

 

このファウンテングローブ・ワイナリーが、
ソノマでのワインづくりの始まりと
言われているそうです。

 

やがてハリスからワイナリー事業を受け継いだ長澤が
手掛けたワインは高い評価を受けて成功を収め、
カリフォルニアの10大ワイナリーに
数えられるようになります。

 

数多くのコンテストでも入賞していた
長澤のワインは、当時、アメリカワインに
見向きもしていなかったイギリス市場に
初めて輸出されたカリフォルニアワインともなりました。

 

「カリフォルニアのワイン王」や「葡萄王(Grape King)」
と呼ばれるまでになっていた長澤は、
排日運動や禁酒法など厳しい時代の中でも
強い意志でもってワイナリーを守り続けました。

 

長澤の死後は、外国人だったことで土地の相続が叶わず、
ワイナリーは人の手に。その後、1900年半ばまで続けられた
ファウンテングローブ・ワイナリーは閉鎖となり、
その名前は途絶えてしまいました。

 

しかしながら、長澤が開いたワイナリーの一部は
ビック・ファミリーという家族経営のワイナリーによって
「パラダイス・リッジ・ワイナリー」として継承され、
長澤の偉業に感銘を受けたオーナーにより、
その名前を冠したワイン
パラダイス リッジ カナエ・ザ・グレープ・キング
が造られています。

 

 

カリフォルニアワインの礎を築いた長澤の生涯は、
日本ではあまり知られることがありませんでしたが、
1983年に来日したレーガン大統領が彼の名をあげ、
その偉業を称えました。

 

それにより広く知られるようになり、
2014年に鹿児島県に開館した薩摩藩英国留学生記念館には
長澤の苦難の歩みとともにパラダイス・リッジのワインが
展示されているそうです。

 

今回の山火事により
サンタローザ周辺は大きな被害を受け
長澤によって建てられ地元の人にも愛されていた
歴史的建造物「ラウンド・バーン」も
焼け落ちてしまったそうです。

 

生活や住まいが復興し
ぶどう畑が回復してワインができるまで
途方もない時間がかかるのかもしれないですが、
150年以上も前に、たった一人異国の地で勤勉に働き
生涯を終えたひとりの日本人。

 

長澤鼎の生涯とカリフォルニアの地で造られたワインが
今後もつながっていくといいなと願います。

なにより、これ以上被害が広がらず、
一刻も早く消火されることを祈ります。

 

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