ながさわかなえ長沢鼎さんのワイン

ハダノリの日々
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オンラインワッシーズ店長ハダノリです。
長沢鼎さんが、テレビで紹介されてましたね。
偶然見ていてちょっとびっくりしました。
カリフォルニアワインの専門店の店長として、もちろん私も長沢さんの
お話は知ってましたけど、、、、日本のテレビで紹介される!ってなんかすごーーーい!
あまりに、知られていない方なので。。。
カリフォルニアのワイン王 ソノマの父です。
なんかうれしーーー
調べたら、wowwow でドラマにもなってたみたいです。探してみてみよう!
1月17日(日) 午後3:30 WOWOWで放送  [HV]
20世紀初頭、真のサムライ精神で、カリフォルニア・ワインを世界的ブランドに育て上げた日本人がいた…。
 アメリカ、カリフォルニア、ソノマ。この世界的に有名なワインバレーの礎を築いた一人の日本人がいた。長沢鼎(ながさわ かなえ)その人である。
 明治維新直前に、薩摩藩の密留学生として13歳でロンドンへ派遣され、その後、数奇な運命を経てカリフォルニアに入植。
ブドウ栽培とワイン製造のパイオニアとして、苦難の開発の末に、ワイン王と呼ばれるまでに至る。ところが、彼の偉業はカリフォルニアでも日本でも、
広く知られてはいない。1920年代の排日差別政策や太平洋戦争の結果、彼の事業が継承されなかったからだ。彼の業績が再評価されたのは、1983年に
レーガン大統領が日本の国会での演説で、「米国に貢献したサムライ」として特に言及したため。 ソノマのワイン業者の中には長沢の名前を冠したワインを作り、先駆者の功績を伝える運動を始めたり、地元の博物館や図書館では、長沢に関する資料集めが開始されたりしている。 アメリカ人になるために、アメリカと闘ったサムライ、長沢鼎。そのために彼は、アメリカ人に愛され、認められた。真の国際人として認められるにはどうしたらいいか。
その答えを、国を超えた彼の生き方が示してくれる。 与えられた運命を自らのものとし、大地に根差した新しい共同体を作る。その夢の実現に向け、
新しい道を切り開き、挑戦し続けた彼を、俳優の伊藤淳史が“発見”するノンフィクション・エンターティンメント。

ワイン王と呼ばれたサムライ。1852年、薩摩の武士の家に生まれた長沢は、欧米の文化を学ぶために13歳でイギリスに留学。特に語学で優秀な成績を収めるも、薩摩藩からの支援がなくなり、長沢はアメリカへ渡る。23歳でカリフォルニア州ソノマに移住し、ぶどうの品質向上に研究を重ねた。当時のカリフォルニアのぶどう畑は害虫により壊滅寸前であったが、長沢は3年もの試行錯誤の末、害虫に強い北米産のぶどうを突き止める。この北米産のぶどうを台木とし、ヨーロッパ種のぶどうを接ぎ木することで、美味しいワインを生み出すことに成功する。ソノマで作られた長沢のワインは米国内のワインコンクールで2位に入賞。さらにイギリスやヨーロッパに輸出し、カリフォルニアワインの品質を認めさせたのだ。名実ともにワイン王と呼ばれた長沢だったが、1920年の禁酒法施行によりワイナリービジネスは大きな痛手を受ける。長沢は、カリフォルニアワインを絶えさせないために、ぶどうジュースや食用ぶどうを作り、経営を続けていた。そして1934年、禁酒法の廃止を見届けた後に亡くなった。1983年にロナルド・レーガン大統領が訪日した際には、国会のスピーチで長沢に感謝の意を述べている。かつて彼のブドウ畑があった地で作られたカリフォルニアワインには、今も”Nagasawa”の名が記されているのだ。
うーーん、かっこいい

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