コスタ ブラウンKosta Browne
コスタ・ブラウン早わかりポイント
- 2011年、ワイン・スペクテーターの年間トップ100で、“ソノマ・コースト ピノ・ノワール2009”が1位に選出されカルトワインとしての地位を確立
- 購入用のメーリングリストには10年待ちの顧客もいる希少ワイン
- 近年は“デリケートなバランスと果実味を備えた洗練されたスタイル”へと進化
2人の情熱から始まったカリフォルニアを代表するカルトワイン
コスタ・ブラウンは、ソノマのレストランで働いていたダン・コスタとマイケル・ブラウンが、「ピノ・ノワールで最高のワインを造りたい」という強い想いから1997年にスタートしたワイナリーです。
2005年、ワイン評論誌で95点を含む高得点を獲得し、一躍世界中の注目を集め人気が急上昇。その後も2011年にはワイン・スペクテーターの年間トップ100で、2009年ヴィンテージの“ソノマ・コースト ピノ・ノワール”が1位に選出。カリフォルニア・ピノ・ノワールを代表するカルトワインとして地位を確立しました。
生産するワインの9割がメーリングリストで販売されており、登録者は3万人以上。10年間待っている顧客もいるほどの長いウェイティングリストなのだとか。
当初はリッチでエネルギッシュだったワインスタイルは、近年、 デリケートなバランスと果実味を備えた洗練されたスタイルへと進化。各アペレーションや単一畑の個性を表現したワインを生み出しています。
ワイン造りへの挑戦は10ドルのチップから
コスタ・ブラウンの物語は、2人の若者の友情と情熱から始まりました。
1997年、カリフォルニア州サンタローザにあるレストラン「John Ash & Co.」で働いていたダン・コスタ氏とマイケル・ブラウンが出会います。当時、ダン・コスタはレストランのマネージャーを務め、マイケル・ブラウンはソムリエとして働いていました。
ワインへの深い情熱を共有したこの2人は、「ピノ・ノワールで最高のワインを造りたい」という共通の夢に向かって進み始めます。
まずは元手を貯めるため、ダンの提案で毎晩のチップを10ドルずつ貯金し始めます。数ヶ月間で1,000ドルを確保した2人は、さらに不足分をレストランのシェフが補填してくれたことで、ソノマのロシアン・リヴァー・ヴァレーにあるエヴェレット・リッジのピノ・ノワール0.5トンを購入。中古の機材や樽を揃え、最初のワイン造りに挑戦しました。この時できたワインは24ケースのみで、主にレストランのVIP客に提供されたといいます。
翌年1999年には、資金調達のために安価で製造工程が短いソーヴィニヨン・ブランの生産に切り替えて3,400ケースを販売。次のステップへ進む準備を整えました。
知名度ゼロから掴んだ最高のブドウ
2000年、ダンとマイケルは再びピノ・ノワールの生産に挑戦します。しかし、ここで2人に困難が立ちはだかります。まだ設立して間もないコスタ・ブラウンは知名度が低く、なかなか高品質なブドウを確保することができなかったのです。
2人は数週間にわたって人脈づくりに励んだ結果、元祖カルトピノ“ウィリアムズ・セリエム”の元アシスタントワインメーカー、ジョン・フェリントンからの紹介を得ることに成功。
畑のオーナーからウィリアムズ・セリエムが単一畑ワインに使用しているコーン・ヴィンヤードの高品質なブドウを譲ってもらえることになったのです。
この契約により、コスタ・ブラウンは高品質なピノ・ノワール用ブドウを安定的に調達できるようになり、ブランドの成長の土台を築いて行きました。
廃業の危機を救った19人の投資家たち
ピノ・ノワールへの挑戦が本格化する一方で、熟成期間が長いこの品種では販売可能になるまでに多額の資金が必要となり、コスタ・ブラウンにとっても大きな課題となっていきました。
そんな中、2001年にコスタ・ブラウンに3人目の仲間であり、今後ワイナリー成長させるために重要な役割を果たす起業家のクリス・コステロが加わります。ダンとマイケルのビジネスプランに賛同し、2人がコーン・ヴィンヤードから造った2000年ヴィンテージのピノ・ノワールを飲んですっかり虜になったのです。
クリスは投資家ネットワークを通じて資金調達を支援。3年がかりで19人の投資家から100万ドル弱の資金を集めることに成功します。マイケルとダンは、『この19人の投資家たちがいなければ、ワイナリーは廃業という選択肢もあった』と語り、クリスもまた『何度も手を引こうと思ったが、マイケルの熱意と強い意思、そしてダンの人柄やカリスマ性がそうさせなかった』と言っています。
この資金により、コスタ・ブラウンはピノ・ノワールの増産と販売網の拡大を進めることが可能になりました。
追い求めた夢が現実に
醸造を担当するマイケル・ブラウンにとって、「ピノ・ノワールで少なくとも1つの90点を獲得する」ことは創業当初からの大きな目標でした。
2005年、マイケルはこの目標を達成するためコスタ・ブラウンの今後を変える大きな決断をします。この年、果実の収穫タイミングを遅らせるハングタイムの延長や、樽での熟成期間の延長、マイクロフィルターの導入などを行いました。一つ一つは簡単な手順の変更です。しかし、この変化でワインの品質が飛躍的に向上し、ピノ・ノワールのエレガントさと凝縮感を際立たせることに成功したのです。
これらの取り組みの成果は、すぐに評価として現れました。有名ワイン誌ワイン・スペクテイター誌が2003年ヴィンテージのワインに95点を2本、90点以上を3本の高得点をつけたのです。このような高得点は、小規模ワイナリーとしては異例の快挙。マイケル・ブラウンは、このニュースを聞いて『恐れおののいた』と語っています。
この成功により、コスタ・ブラウンは一躍その名を広く知られる存在へと成長。多くのコレクターや愛好家がコスタ・ブラウンに注目し、需要が急増。その年のワインは即完売。そのため、ワインを買うためのウェイティングリストは増え続け、それがさらにカリスマ性を増していく要因にもなっていったといいます。
その後も高評価は続き、2011年にはさらに大きな成果として結実します。この年、ワイン・スペクテーターの年間トップ100で“ソノマ・コースト ピノ・ノワール2009”が1位を獲得。この偉業は、マイケルが抱いていた目標を大きく超え、コスタ・ブラウンをカリフォルニアのピノ・ノワールの象徴的存在へと押し上げました。
コスタ・ブラウンの進化と次世代への挑戦
世界のトップを取った後もコスタ・ブラウンは、ワイナリー施設や自社畑を取得するなど進化し続けています。2018年にはダックホーン・ヴィンヤーズの傘下に加わり、新たな成長のステージに。これにより、ブランドの規模はさらに拡大し、オレゴンやフランス・ブルゴーニュでのワイン造りも開始しています。
そして2017年、ワイナリーの成長とともに創設者である3人はワイナリーを去り、新たな道へ。
マイケル・ブラウン氏は、世界トップクラスのピノノワールを目指すプロジェクト「Cirq(サーク)」やその弟分的ブランド「CHEV(シェヴ)」という自身のブランドを運営。
ダン・コスタ氏は、「DK・ワイン・グループ」でカリフォルニア州の主要なワイン産地から厳選したピノ・ノワールとシャルドネ造りを行っています。
どちらのワイナリーも、コスタ・ブラウンで築き上げた経験と情熱を基盤にしながら、それぞれの個性と理念を反映したワイン造りを追求。創業者たちの活動は、コスタ・ブラウンの物語が単なる過去の成功にとどまらず、今もなお進化し続けていることを物語っています。
過去と現在、コスタブラウンのワインスタイル変貌
過去も今もコスタ・ブラウンの核となっているのは、「世界の偉大なクール・クライメート産地を、ピノ・ノワールとシャルドネで表現すること」。
2000年代のコスタ・ブラウンは、若々しく、リッチでエネルギッシュなスタイルが愛好家に熱狂的に支持され、当時のアメリカ産ピノ・ノワールのブームを牽引してきました。
そして現在。畑の多様化や樹齢の変化、各地でより多く経験を積んできたことにより、ワインのスタイルは自然と洗練されたものへと変化しています。
デリケートなバランスと果実味を備えた透明感のあるエレガントな味わいへと変貌を遂げ、華やかさと力強さを兼ね備え、正確で熟成ポテンシャルに優れたワインを生み出しているのです。
現ワインメーカー:ジュリアン・ハウセピアン
2019年以降、ワインメーカーを担当するのはジュリアン・ハウセピアン。
北カリフォルニアのベイエリア生まれのジュリアンは、カリフォルニア大学デービス校でブドウ栽培と醸造学の学位を取得し、コスタ ブラウンに入社する前はカリフォルニアの著名なワイナリーやニュージーランドでも評価の高いホークスベイ地域で、経験を積んだといいます。
2012年、ハーベストインターンとしてコスタ・ブラウンで働いていたときにマイケル・ブラウンから声をかけられ、、正式にコスタブラウンに加わりました。ジュリアンのワイン造りに対する緻密で、細部にまでこだわるアプローチと、ブレンディングへの情熱で、生産アシスタントからセラー責任者、アシスタントワインメーカーへと急速に昇進していきました。
ジュリアンは「ワインメーカーとして、素晴らしいブドウ畑で働けることは、謙虚さを教えられると同時に、贈り物のようなものです。それぞれの畑には、語るべき魅力的な物語があります。そして、コスタ・ブラウンは20年以上にわたり、これらを伝えることに専念してきました。この伝統を受け継ぎ、さらに発展させることができるのは、私にとって名誉であり、特権です。」と語っています。